宮城県・女川町は、東日本大震災で甚大な被害を受けたが、公民が密に連携し、新しいまちづくりが進められた地域のひとつだ。その女川で震災復興を支え、現在も都市部の人々の流入窓口として貢献しているNPO法人「アスヘノキボウ」。そこでスタッフとして働く、後藤大輝さんにお話しを伺うことができた。
女川町は、東日本大震災発生後、復興連絡協議会という民間の組織を立ち上げ、住民が自ら町の復興ビジョンをつくったという。その復興連絡協議会の戦略室が法人化するかたちでできたのが、2013年に設立されたNPO法人「アスヘノキボウ」だ。その中心事業として、女川への来町を促し、さまざまな活動をする人たちを増やすことを目的とした活動人口創出事業がある。その責任者を務めているのが後藤大輝さんだ。
「活動人口創出事業には、大きく二つ、お試し移住プログラムと創業本気プログラムがあります。お試し移住プログラムは、5~30日間で女川の暮らしを体験でき、女川との関わりの入り口になるような機会にしたいと考えています。また創業本気プログラムでは、女川を中心に、地方で起業したい人たちを支援しています」
元々、後藤さんが復興まちづくりに関心をもったのは、大学3年生の頃。明治大学にきずなInternationalという、ボランティアサークルがあるのだが、そこに所属していた同じ英語のクラスの女の子に「東北行くけど行く?」と誘われて、東北へのボランティアに参加したのがはじまりだった。
「ボランティアに参加して縁ができた東北ですが、ボランティア以外にも、HLABという高校生向けのサマースクールの運営に関わっていて、2015年に女川町でサマースクールを開催することになりました」
そこで女川町との縁ができたそうだ。
「2015年頃の女川は、ちょうどJR女川駅が完成したり、仮設商店街がシーパルピア女川の商店街に移ったりと、町が出来上がるタイミングが重なり、いろんな変化があるときだったんですね。中でも女川町は、(ハリケーン)カトリーナで壊滅的だったニューオリンズの復興への取り組み(データブックの活用)など、国内外の復興まちづくりの知恵を取り入れていて、魅力的に映りました。それで女川のまちづくりに興味を持ったんですね」
その後、国外の復興事業も気になり、台湾やフィリピンなど、海外の被災地域へ足を運んで、復興まちづくりについて学んだ。フィリピンでのフィールドワークでは、東北でのボランティアで知り合った、アスヘノキボウ創業者の小松さんを案内することになったという。
「小松さんに、興味があるなら、ちょっと女川に来てみたら、と言ってもらえて。女川の変化に早く関わりたいという気持ちも大きくて移住することに決めました」
そうして2016年にお試し移住プログラムを利用して、女川町へ。
女川では、アスヘノキボウでアルバイトをしたり、地域のラーニングツアーでガイド役を務めながら暮らした。お試し移住から数か月後には、正式に入社することを決意。大学卒業までは東京と女川を行ったり来たりしながら、学生と社会人という二足の草鞋で生活。卒業後もそのままスタッフとして働き、今に至る。
「女川のまちづくりっておもしろいんですよ。だから、そこにいろんな人が関わってほしいと思っています。お試し移住や創業支援のプログラムは用意していますが、その枠に収まらず、僕ができることはどんどんやっていきたいんですね。例えば、HLAB(エイチラボ)や、さとのば大学など、女川と関わる団体で、地域のコーディネーターのような活動もしていて。そこで知り合った人たちと交流するのが、自分の楽しみでもありますね」
女川のことが大好きだ、と語る後藤さん。未来への希望を教えてくれた。
「世界各地の被災地から生まれた知恵や技術を、どこからでもアクセスできるようになったらいいですよね。今後被災地になりうる地域で、もっと自分の町をよくしたいと思っている人たちが、いろんな知恵を学べるようにお手伝いしたいですね。そうして、女川のように各地でおもしろい町が生まれたらいいなと思っています」
災害からの町の再建というのは、行政だけでなく、後藤さんのような若い力や地域の人々の意思と協力によって、はじめて息を吹き返すのだろう。
後藤 大輝(ごとう たいき) |
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